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【考察】【ネタバレあり】劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語

ようやく時間が取れてみることができました。

すでに様々な考察がネット上にもあるようで、今更な気もするのですが僕なりに気づいたことをメモも兼ねて残させていただきたいと思います。

もともと、アウトサイダーアートのような背景が目立つ「まどマギ」でしたが、僕もこれは精神障害の方が描く絵が元になっているのではないかという気がしていました。また、顔が切れたりするのシーンがありましたが、恐怖映画とかでもよく使われる手法で写真でホラーの元になった人の写真の顔の部分が傷ついていたり、破られていたり。ほのかが絶望するときそんなシーンがちらっと入っていたのでおそらくその辺の要素はあると思うんですね。

そういう意味では、最後にエントロピー最大になり宇宙の法則を作り替えたまどかは世界そのものを再構築するという点で考えると、ゼロ年代的な要素がとても強い終わり方していたような印象がありました。ところが、今回の劇場版はむしろそこをひっくり返す感じが強かったように感じます。

と言いますのも、まどかを起点にほのかが時間を巻き戻してまどかにエントロピーが集約していくという話しを聞くと、自動的にもう一人にもエントロピーが集約してもおかしくないだろうと個人的にはツッコミを入れたかったからです。ほのか自身にエントロピーが集約してもオカシクなかった。むしろ、情報を保持したまま、同じ時間帯を別の生き方を繰り返し記憶を貯め続けていたほのかに貯まる方が自然ではないか。そう思っていました。

ほのか自身、暁美という苗字からマージナルな存在で、境界を渡り歩く運命にあるのでしょう。ワルプルギスの夜自体が他の方が書いてくださっているように、夜明けや春の訪れと関係がある、言い換えるなら時間的な境界性にかなり関係がある儀礼のようです。

映画前作が出たとき、その辺りに触れられるかと思ったら、まぁアニメの巻き直しw ある意味時間を観客も逆行したような感覚に襲われましたけどww

自分たちの世界の中で楽しむ、一人一人の世界というのがゼロ年代のテーマだと思いますが、アニメでは魔法少女という形で卵に自分を封じ込めます。今回はその逆で中から殻を打ち破るというのが中盤まで大筋でしょう。変身シーンにおいても、自分の肉体をぶっ飛ばしたり破って中から出てきたりする感じで魔法少女になっていたので、最初見たとき精神疾患の背景を前提として見てた僕としては少々やり過ぎなんじゃないかと思ってしまいました。肉体捨てて、デジタル空間に身を置いているように感じたからです。元々、殻に精神が閉じこもり、肉体をアバター化して戦う魔法少女ですが、これは後に殻の中の世界で自由に動いているという話しになったので、むしろなるほど〜と思いました。

先ほど、ホラー映画の常套手段について書きました。映画全般で画面いっぱいに丸い円が出るときは目玉のメタファーである場合が多く、今回の劇場版まどマギでも出だしでそんなシーンがありました。キューベーがちょくちょくチラ見していたので、監視してるのしらばっくれてるなとは感じてましたが、そこで気がつけば良かったんですが、殻の外の世界で監視してるキューベー見るまで気づけませんでしたw

こういう世界の入れ子構造が宇宙規模に広がり、その宇宙の円環そのものであるまどかが具現化したとき、全部=部分というパラドキシカルな式が成り立ちつつ、全を取り込む部分であるはずのほのか。クラインの壷やメビウスの輪的な構造であり、この辺りはドゥルーズの器官なき身体のような印象も感じました。僕もドゥルーズ自体難しすぎてちゃんと読めていませんが、器官なき身体に関係ある概念で欲望する機械というのがあり、ふと思い出したのが、

欲望する機械 Jean Tinguely : Méta Harmonie IV – Fatamorgana, 1970

のように歯車で表現されたアートです。時計とこの作品をかけたと考えるとなんか納得できます。もともと虚淵玄さんは「サイコパス」でフーコーのパノプティックな社会を描いていたと思いますし、ドゥルーズとも比較的親和性があると考えられます。となると、陰陽のようなほのかとまどかの構図からすると、最終的にワルプルギスの夜という魔女は、ほのかになる気がします。どこまでも妄想がひろがりますw

生命の樹っぽい矢が卵を壊し、世界との道筋をつけ、後半のほのかが悪魔化するという話しは、第一級の天使であった神にとってかわろうとしたサタンが悪魔に落ちるのと同じだとおもいますが、その原動力が「愛」というのは、なんとなく資本主義的なニオイもします。家族とよりよく生活するために仕事していたはずが、会社のためになり、家族バラバラ離婚。子育てはコスト扱い。愛が私欲と区別つかなくなるとそうなるんでしょうか? 新自由主義のスマホメディアで孤立化していく人たち。友達目の前にいるのにいないかのようにメールしたり、FBみたり、記憶を失う仲間とほのかのラストシーンがなんとなく重なりました。とりわけ、バッサリ隣が土地ごと消えているのは印象的です。後悔をもとに過去を見つめる可能世界はハルヒなどにもありました。ドンドンそこから出られなくなり、繰り返し繰り返し見つめ続け、外に向ける視野を失っていく。時に自殺願望にもつながるようです。それが愛だったときにその相手へのアプローチが出てくるし世界そのものの認識も変化しますが、まずまどかのほのかも含めた愛が宇宙をつつむ前提が必要で、それあってのカウンターパートという感じでしょうか。次回作に期待ですね。

それにしても、これってそういう意味では逆にカタルシスとか起きる人がおおくなりそう。。

あんまりまとまりのない駄文で申し訳ありませんでしたが、最後まで読んでくださってありがとうございますm(_ _)m

【ネタバレ注意】ヱヴァゲンリオンQ ⇒ エヴァンゲリオン「||」 の意味について

以前ヱヴァ序・破から、なぜ「Q」がアルファベットなのかということについて書かせていただきました。本日、やっとこさ時間を取れて見てきましたが、改めて自分の読みの甘さ、そして庵野秀明という人がどんだけシンボリズムにこだわる人なのかということを痛感させられますwww

Qについての考察: http://wp.me/p2fO23-60

最後の審判で世界が改変されるというような内容については、大体は自分に及第点を上げたいところですが、そもそもヱヴァがカバラ(qabbala)であることを加味しそこなっていた時点で、あんまりあってるともいえないかもしれません。

さて、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」という最後の読み方が不明な予告がありました。生命の樹ことセフィロトの樹を考えてストーリーも構成されているのだろうということがこれを見たときに気が付きました。

音楽の終止線であることは、Qのピアノ演奏の予告や、その五線譜を使った「∞」、バロックがカヲルとシンジがヱヴァに乗った時の背景にで出ていたことからも推察ができます。

ところが、これだけなのかというと、そうじゃない気がします。上述のように、「Q」には最後の審判という序破急の型からの意味が一つ。もう一つは、カバラの「Q]が存在しているっぽいと思われる為です。

すると、「カバラ的な意味合いの方は何ぞや?」ということになります。

もともと、アスカ・シンジ・レイの設定自体が、アニマ・アニムスとその間というセフィロトの樹の縦線3本から構成されているのはそっち方面では有名な話です。

カバラ・セフィロトのwiki: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%A9

振り仮名あり: http://www.starpeople.com/kabalah.html

真ん中が例で、両サイドにシンジとアスカの軸があるわけですが、破で新登場したマリは、セフィロトの樹の中で明らかに一か所「○(セフィラ)」があってほしいところにないですよね? ダアートと呼ばれるセフィラが記述されていないのは、セフィロトの樹が実は立体構造で、この図の奥にもう一つセフィラがあるらしいです。それがおそらくマリの立ち位置だと思われる。ヱヴァに乗りながらも独自路線を突っ走ります。そういう意味でレイよりな感じがどこかするのはそういう設定だからかもしれません。

さて、Qではアスカが「ガキシンジ」と言い出します。これは片目を失ったためにマザコン根性(エディプスコンプレックス)が無くなったことを意味しているように思います。アスカは男勝りの女性であり、シンジは女々しい男性という感じなのでたぶんそういうことなのじゃないかという気がします。片目を付くというのが神話ではペニスをちょん切る代わりになるそうです。ちなみに鼻の大きさがペニスの大きさを表すそうですww ハリポタのヴォルデモートは鼻がないので、生殖機能がない、子供ができないわけですね。でもハリーとなんかくっついている感じがするという設定がシンボリズム的にも不気味な感じを出していたのだと思います。ハリポタって血による差別をモロに出す話ですし、結局、血のつながりではなく魂との繋がりだったという構成でしたけど。。ハリーはpotterというだけあって、ポット、陶作りですから土塊から神が人を創ったということで肉体。この肉体に息を含ませて人としたわけです。すると、ヴォルデモートは最初空気のような状態(=魂)である意味が分かります。だんだんハリーと接触するたびに人間っぽい身体になっていき、最後は血を奪って蘇ります。肉体にヴォルデモートの魂を宿すハリーと魂が肉体を手に入れたヴォルデモート。王様はどちらに!!みたいな話しになるのは必然だったわけです。

話が逸れましたので、戻します。言いたいことは、アスカが片目を失って、自身のコンプレックスを克服したということは、その前提にセフィロト設定が生きていることを暗示しているように感じました。

すると、

【序】:セフィロトのケテル~ホクマー・ビナーへの小径(こみち)

【破】:ホクマー~ホッドと各小径

【Q】:ネッツァ―・ホッドからイエソドへ向かう各小径~イエソド

という感じになるのだと思います。

大切なのは、この繋いでいる線なんですね。もうお分かりでしょう。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のもう一つの「||」はセフィロトの最後のセフィラ(丸いところ)へ続く小径であるように思います。

【||】:イエソド~マルクートorマルクートまでの小径(後者の場合、エンドロールの後、チラッとストーリーを入れるのではないでしょうか?)

他にもセフィロトの樹だと推察できる根拠があります。それは、あの世界がもう14年経っているということです。つまり、アスカたちは28歳ということになります。そして「序・破・Q・||」の4つを足すと、セフィロトのセフィラ10とその小径22、10+22=32です。 28(歳)+4(人・話)=32。

ブルーレイを4本集めると、その人の家に生命の樹ができあがるようにしてあるんじゃないかと思います。

作品中のシンボリズムも色々楽しめましたが、ここでは割愛させていただきます。

微妙な予想になりましたが、読んでくださった方ありがとうございます☆

追伸

セフィラはプロセス(小径)でもあるらしいので、ここでは追求しませんでしたが、要するにエンドロールが終わってからチラッとだけショートストーリーが今まで入ったのはまさにそれが小径だったからではないかと思います。本編とは別に次へ繋がるストーリーをブリッジストーリーと言うそうです。ですから、小径っぽさを出すのには調度良いのではないでしょうか。そうだと考えますと、

【序】:セフィロトのケテル~ホクマー・ビナーへの小径(こみち)

【破】:ホクマー~ホッドと各小径(イエソドに向かうものも含む)

【Q】:ネッツァ―・ホッドの小径~イエソド

【||】:イエソド~マルクートorマルクートまでの小径

ということになるように思われます。さらに、言うならば「Q」がセフィラに道が出ている形(○+||)と考えると、ラストシーンの意味が分かるような気がします。連絡のつかない場から次に向かって歩みだす。つまり、ちょっとだけイエソドから「Q」の時点でマルクートに歩み出しているという見方ですね。

いや~次回作が楽しみです☆

【追記】

さっき歩いていてふと気が付いたのですが、DVD/BD自体がセフィラの見立ててと言う可能性がある気がします。そうなると、ディスクの販売は計5枚になるかもしれませんね。4枚は序/破/Q/||で、もう一枚裏話とかデ・コード編とかそんな感じで。なぜかと言えば、これもセフィロトなんですが、中心の軸には4つのセフィラにもう一つ隠れセフィラのダァートが存在するじゃないですか。前述のマリの位置のやつです。秘匿されているセフィラです。ディスクがこの中心軸を表しているとなると、僕たちが想定している枚数に1枚隠しディスクが出るなり、おまけで付いて来るなりするかもしれませんww